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萩原誠さんのプロフィール

はじめまして!
「生活だけでなく気持ちの余裕が持てるようになりました!」といわれる、ファイナンシャル・プランナーの萩原誠(はぎわらまこと)です。

わたしは、愚直なまでに正直で、情熱的な父と人を分けへだてなく受け入れる母のもとで育ちました。

そんな両親を見習い、「人生に希望が持てるようになりました」と笑顔になっていただけるようにまい進していきます。

hagiwara

ファイナンシャル・プランナー
萩原誠

なぜ私が

「おやじ、お人よしだなぁ」

愚直なまでに正直で、うそを言わない。正義感が強く、つねに本音で生きる情熱家。一方で、他人へ気前がいいくらい思いやりがある。そんな父親にわたしは育てられました。

小学生のときは、週末によくサイクリングに連れて行ってくれました。行った先で、釣りをしていると、知らない人とも自然に仲良くなっている。

大学のときには、わたしが家に帰るのが遅れ、友達が先に家に来ていることがありました。わたしが帰ってきたら、父は、出前で寿司をとり、友達と楽しそうに話し込んでいました。

”おやじ、お人よしだなぁ”と微笑ましく、見ていたものです。

母は、芯がしっかりしていますが、決して怒ることはありません。人を色めがねで見ない、分けへだてしない、懐の深い人です。

母は、「どんな子でもつれてらっしゃい」とよく言ってました。小学校のとき、仲は良いけど、不良と呼ばれている友達を家に連れてきました。そんなときでも、母は、友達を笑顔で快く迎えてくれたことが、とてもうれしかったです。

天才から不良のような子供まで、どんな友達にも優しく振舞う母の姿を見て、誇らしく思っていました。

「萩さん、おもしろかった!」

小学校に入ると、父は「勉強!勉強!」というようになりました。テストの点数や通知表を見ては、「なんでこんなこと、わからないんだ!」と厳しく怒られました。

また、わからないことをなにも調べないで聞くと、「おれに聞く前に調べろ!」と怒られました。わたしが調べていないのに、「調べた」とうそを言うと、「本当に調べたのか?」と聞いてきました。「調べた」というと、この上なく厳しく怒られたのです。

「うそを言うんじゃない。答えはここに書いてあるだろう!」

そう怒られると、なにも言えなくなりました。そんな父がとてもこわかったです。

だんだんと「おれはだめな人間なんだな…」と、自分に自信がなくなっていったのです。

小学5年生のとき、運動神経抜群で、オープンでさばさばしている渡辺先生という女性の先生が担任になりました。渡辺先生は、男の子も女の子も分けへだてなく、子供たちとドッチボールをして遊んでくれたりました。

わたしのことを、「萩さん!萩さん!」と呼んでくれました。なんでもオープンに話せる先生。勉強ができなくても否定せずに、わたしの気持ちによりそってくれました。わたしのことを、みとめてくれることが、うれしかったのです。

小学6年生のとき、クラスのお楽しみ会で、コントをやることになりました。わたしは、そのコントのシナリオを書く役割に抜擢されました。

父方の家系がユーモアセンス抜群で、人を笑わせることが好きな人が多かったのです。そんな影響からか、わたしも人を笑わせることによろこびを感じて、シナリオを一生懸命作りました。

お楽しみ会当日、クラスのみんなが大爆笑。担任の渡辺先生も、「萩さん、おもしろかった!」と涙を流しながら、笑ってくれました。

それからです。人前に出ることがいやでなくなり、自信のなさも消えていきました。明るくなって、気持ちも開放されていったのです。

あるとき、母がこんなことを言ってくれました。 「誠。渡辺先生になってから、変わったね。」

「余計なことするんじゃない!」

一番最初に入った会社は、同族経営の広告会社でした。周りに気を使いながら、いつもビクビク。会社になかなかなじめませんでした。

営業で配属されたのですが、クリエイティブなⅭⅯ制作の仕事に少しずつ情熱を持ち始めました。ところが、上司や先輩からは、与えられた仕事だけして、「勝手なことはするな!」「目立つことはするな!」と言われました。

かげでこっそり、ⅭⅯ制作の仕事を手伝うようになりました。ⅭⅯ制作の現場がものすごく忙しく、現場の人には、「助かったよ。頼もしいねぇ」と言われることが、ささやかなよろこびでした。

一年後、忘年会の席で、社長から「おまえ、仕事取ってこないくせに、余計なことするんじゃない!」と怒られました。

やりたい仕事はあるのに、やらせてくれない。枠の中で管理されて、「堅苦しいなぁ。楽しくないなぁ」という気持ちでした。

なにより、やることなすこと、すべてみとめてくれない。人として見下されている。悔しい気持ちでいっぱいでした。

これが社会ってもんか、もっと自由にさせてくれたらいいのに、そんな想いで、入社3年で会社をやめました。その後、自分のやり方でやりたい!という想いと会社組織が合わず、36歳まで10年間、会社を転々としました。

36歳のとき、あるマーケティング会社のホームページに魅せられて、毎日見ていました。社員が全員顔出しして楽しそう。社長の考え方や自由でのびのびした雰囲気が、自分にぴったりだと思い、応募しました。

面接のとき、社長から「萩原くんのような情熱的でクリエイティブな人間がうちには必要なんだよ」と言ってくれたことが、とてもうれしかったのです。

入社すると、ゼロからプロジェクトの立ち上げを任されました。なにもないところから作り上げる。手作りでアンケートを作り、リサーチしてデータにまとめる。結果として、会社の成果につながる。そして、会社からも評価を得られる。

今までに味わったことのない、オリジナルで手作り感に、情熱を持って仕事にいそしむ日々でした。

そんな中で、社長から言われた言葉で印象的な言葉があります。

「人をけなしたら降格。人の上げ足を取ってはいけない。 人は長所と短所で成り立っているんだから。」

チームプレーの楽しさと人のすべてをみとめる大きさを知りました。

「感情の振れ幅を受け入れよう!」

こんな理想の会社はない、というくらい気に入っていた会社が、経営上の問題で、会社を解散することになりました。入社して1年あまりの出来事です。

運よく、取引先だった外資系保険会社の方から、一緒にやらないか、とお声かけいただきました。1ケ月の研修を終えて、さあ、これから!と意気込んでいた矢先、日本支社を撤退する決定がなされたのです。

その後、幸いにもまた外資系保険会社が引き取ってくれました。入って3ケ月、今度こそは!という強い想いで活動をしました。結果、この上なく絶好調。

ところが、3ケ月すぎると、一気に成績は急降下。知り合いのところを駆けずりまわり、新規開拓をしていなかったのです。

「行くところ、ないなぁ…」

コンビニに飛び込みをしたりして、なんとか半年間食いつなぎましたが、決定的な方法は見つからない。やむなく、病院の夜間事務の当直のバイトを始めました。40歳のときです。

屈辱的で、みじめな気持ちでした。

一方で、「うまくいかなかったら、どうしよう…」と不安や恐怖から行動をしていたので、行動にむらがあったのも事実です。

あるとき、会社の同僚に、勇気を持って、アルバイトのことを話してみました。成績優秀な同僚は「おれは、精肉屋でバイトやっていた」と笑顔で話してくれました。なにより、愚痴ひとつ言わない。そんな同僚の姿を見て思ったのです。 「酸いも甘いも知っている!」 そして、同じような苦しい体験をしているのは、「おれだけじゃないんだ」と心が晴れやかになったのです。


なぜ、私が【みとめ】を使命と掲げているのか?

成績を上げている同僚も「同じような体験をしている」とわかったとき、ある想いが駆け巡りました。

仕事って、楽しいだけじゃなく、苦しいときや悔しいとき、苦しいとき、落ち込むとき、感情の振れ幅すべてある。その波を受け入れて、楽しもう。不安や恐怖も受け入れよう。

そうなんです。自分の行動を制限し、考えを狭くしていたのは、自分の中の不安、恐怖といった弱さをみとめようとしなかったことだったのです。不安や恐怖を直視しようとしなかったことだったのです。

この出来事から、わたしは、【みとめ】を使命と掲げることにしました。楽しいこともつらいことも自分の感情、結果すべて【みとめ】ることを使命としようと。

それからです。つらくても仕事を楽しもう!そう思えるようになりました。そう思えた途端、純粋に目の前のお客さんのことを考えられるようになったのです。自分の信じて契約してくれた人によろこびを味わってもらいたい、と思えるようになったのです。

心晴れやかになると、当直していた病院の先生から「萩原さんは、なんの仕事をしているのですか?」と声をかけられ、結果契約していただきました。さらに、看護師さん3人を紹介していただき、契約になりました。

さらに、病気で保険に入れない方に出会ったときのことです。いままででしたら、保険に入れないとわかると、しょうがない、とあきらめていました。ところが、「なんとか、この人を安心させたい!保険に入れない不安を解消したい!」そのような情熱がわきあがってきたのです。

いろいろ調べると、再保険という形で、保険に入ることができることがわかったのです。結果、今まで保険には入れませんと言われていたのが、保険に入ることができました。そのとき、「これで安心して生活できます」と言われた安堵の表情が忘れられません。

その後、10年近くお付き合いのあるお客さんに、この仕事の原点を確認するために、「なぜ、わたしから契約をしたのか?」をお聴きしました。すると、想いもよらないことを話し始めてくれたのです。

「初めていただいた正月の年賀状。

『怒涛のように幸せが舞い込むように』

この力強い文章に勇気づけられたのよ。そこから人生が好転し始めたので、 いまでもお守りとして持っています。」

「生活の余裕もなく、気持ちの余裕もない中で、ひっかかることを丁寧に聴いてくれたので、迷いなく決められた。それで、将来に希望が持てるようになったのよ。」

「生活の中で、なかなか相談できないようなことも相談している。そして、家族のみんなが、萩原さんのことを知っている。頼もしいわ。」

このように言っていただけると、この仕事をやり続けてきたことが、本当によかった、そう思えました。

そして、あらためて決意しなおしました。

「将来のことが不安だなぁ…」

「保険に入れなくて不安だなぁ…」

「引っかかっていることがあるけど、気兼ねなく相談できなくて…」

このようなことで悩んでいる方に、情熱をこめていいたいです。

「なにか困ったことがあったら、ぼくに電話してください」
人から頼りにされてよろこんでいただけることが、一番のよろこびです。

 

最後に、
あらためて、わたしを育ててくれた両親にひと言。

おやじの愚直なまでの正直さからくる情熱とその責任感の重さが やっとこの年になってわかってきました。
感謝します。

おふくろのどんな人でも受け入れる懐の深さ、 それを受け継いでいることを心から感謝します。

ありがとう。

荻原 誠   
荻原 誠
  

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秋田俊弥 プロフィール

1962年北海道札幌生まれ。 慶應義塾大学文学部哲学科卒。

使命の物語を紡ぐ号泣ライター 使命【心の声を「言葉」にする】

大手情報機器メーカー、大手通信会社、生命保険会社の営業を通じて、聴く技術=インタビュー・スキルを身につける。
経営者の伝えきれなかった想いを、物語に載せて表現する手腕には定評があり、木戸一敏氏、山下義弘氏、水野浩志氏ら、業界を代表する経営者から絶大な支持を集める。
100社を超す中小企業の社長の、使命と想いの物語化に特化したライティングを行ない「創業時のエネルギーを取り戻せた」「見失っていた目的が明確になった」など数多くの称賛が寄せられている。
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